「彼、香りには敏感だったものね。フランスで試作して持って帰っても、彼にズケズケと言われて落ち込んだ事があったわ。逆にお気に入りの香りに出会えると、機嫌がとても良くなるのよね。私が調香師になるって夢も、まるで自分の事のように応援してくれた。そんなに興味があるのなら、自分がなればいいのにね」
まるで安い思い出話でもするかのよう。
「ひょっとしてこの講座を受けたのって、彼の為、だとか?」
「え?」
「だってあなた、彼の許婚なのでしょう?」
「あれは、ただの形式的なもので」
堂々とした気風に押されそうになるのを必死に耐える。
「そう。でも、幼馴染ではあるのよね?」
「えぇ、まぁ」
「彼、あれっきり?」
「え?」
「あの事件以来、すっかり変わってしまったみたいだけれど、あれ以来なのかしら?」
「それは」
慎二が変わってしまった原因の一端を自分が担っている事になど、彼女は気付いてはいない。彼女は、不甲斐のない霞流慎二を、自分の方からフッたのだと公言している。
「ひょっとして、立ち直らせようとして彼の為に香りを調香したのかと思ったのだけれど」
「どうしてですか?」
「だってこの香り、彼好みに近いみたいだし」
そうだろうか? そんな事を意識したつもりはないのだが。
戸惑う智論の表情に、愛華の瞳が少しだけ鋭くなる。やおら手近なシャーペンを手に取り、ノートの上に走り書きした。
「この分子式、わかりまして?」
「は?」
智論は目を丸くする。数字とアルファベットが並べられている。
C16H30O。
式? なのか?
首を傾げる智論を横目に、愛華はもう一つ。
「こちらのは?」
C6H6。
やはりワケがわからない。
「わかりません」
素直に答える智論の言葉に、愛華は小さく鼻で笑った。
「勘違いだったようね」
そう呟き、屈ませていた身を伸ばした。
「勘違い?」
胸騒ぎを感じて、ゆっくりと見上げる。
「何がですか?」
「あなたが、慎二の為に香りを調香するって話よ。ひょっとしたら彼の為に調香の世界にでも興味を持ったのかと思ったんだけれど、こんな初歩的な分子式もわからないような人間には、慎二が満足するような香りなんて作れないわ。絶対に」
そうして、智論が何かを言う前に、後ろの席の学生へと声を掛けてしまった。
馬鹿にされた。
言いようの無い屈辱が胸に広がった。
智論は、慎二の為に香りを調香しようとしたつもりではない。だが、ひょっとしたら彼の役に立つかもしれないなどといった淡い思いを持っていたのは事実だった。愛華は、そんな智論の心の内を見抜き、そして無残に握り潰した。
「それから、調香師について調べたの」
調香師って、そんなにエラいものなのかしら? 私にだって、たった五日で香水くらい作れたわ。
それが愚かで浅はかな考えである事には、すぐに気付かされた。
その年の秋から、三ヶ月間のスクールへ通った。名前は専門学校となっていたが、実際には習い事のようなもので、入学金を払えば誰でも入れるようなところ。そこで、調香やアロマテラピーなどといった仕事の、ごく上辺だけを学んだ。桐井愛華に出会って調香に興味を持ってから、智論は図書館などである程度の知識は身につけていた。専門学校では、それとほとんど変わらない内容しか教えてはくれなかった。お金の無駄だったとすら思いたくなる。
本当に基礎だけだという事に気付いていたのは、生徒の中では智論一人だけだったのかもしれない。上辺だけを学びながら、まるで専門家にでもなったかのような態度で自慢げに香料について語る隣の席の女性を見ていると、なんとなく虚しくなってきた。同時に、自分はそうはなりたくはないという思いも沸いた。
気を取り直して、別の講座も受けてみた。精油を薬学として学び専門的な知識も身に付けるなどとパンフレットには書いてあったが、実際には原油を肌に付けると荒れる恐れがあるだとか、目に入ったら流水でしっかり洗えだとか、その程度の事しか教えてはくれなかった。どこが薬学的知識なのかと尋ねたら、精油の抽出方法だとか精神的身体的な効能を学ぶ事で薬学的知識を得ているのだと返された。
「素人の方は薬学と聞くと、クスリの処方の仕方だとかが学べて、薬剤師の資格でも取れるものだと思い込んでいるみたいだけれどね」
憐れみを込めた視線を返され、智論は怒りを通り越して呆れた。解剖学を取り入れたアロママッサージの専門スクールなんてモノもあったが、脛は敏感だからフットマッサージをする時には押さえ過ぎるなとか、その程度の内容なのかもしれない。本当に専門的な知識を習得できる場所もあるのだろうが、数あるスクールや専門学校の中でどれがどのような学校なのかを見極めるのはなかなか難しい。ネットの口コミも微妙だ。好評価を受けているスクールが、別のサイトではかなり叩かれていたりする事もある。あの口コミはガセだとか、あの書き込みはスクールの人間が宣伝のために書いたモノだだなどと書かれていたりもする。こうなってくると、何もかもが信じられなくなる。
だが、智論は諦められなかった。自分を見下ろす愛華の瞳を、忘れる事ができなかった。
|